千葉大生の右寄りなブログ。日常の出来事から政治批判まで。
リンク
もしリンク希望があればコメントにて。
我輩は猫の毛である(サイトver.
当ブログの姉妹サイト
当ブログの姉妹サイト
我輩は猫の毛である(ブログver.-跡地
以前のブログ
以前のブログ
県船生徒会六法
猫の毛が作った生徒会Wiki
猫の毛が作った生徒会Wiki
だってぼくたち理数科だから
猫の毛も作成に参加中...
猫の毛も作成に参加中...
まだまだだね・・・
クラスメートのブログ
クラスメートのブログ
韓国は『なぜ』反日か?
戦争史を見直す秀逸なサイト
戦争史を見直す秀逸なサイト
Who am I ?
制作著作:猫の毛
県立船橋高校理数科卒。
1年間のオオヨビ生を経て、
千葉大法経学部総合政策学科2年。
=所属=
学生団体ivote
環境ISO学生委員会
自然保護研究会
環境サークルSun&Co.
星を見る会
=主義=
尊皇愛国主義
反露中朝派
特に敬愛する帝は後桜町院
まず周囲、次に日本、最後に世界の平和と安寧を願う平和主義
もちろん非核推進派
1年間のオオヨビ生を経て、
千葉大法経学部総合政策学科2年。
=所属=
学生団体ivote
環境ISO学生委員会
自然保護研究会
環境サークルSun&Co.
星を見る会
=主義=
尊皇愛国主義
反露中朝派
特に敬愛する帝は後桜町院
まず周囲、次に日本、最後に世界の平和と安寧を願う平和主義
もちろん非核推進派
ケータイ用QRコード
詳細はこちら
メールフォーム
管理人「猫の毛」へメールが送れます。
送信にメールアドレスは不要です。
ご意見、ご感想、疑問、質問、お問い合わせ、その他何でもどうぞ。
(スパムとかは論外ですよ)
※新しいウィンドウが開きます。ポップアップブロッカーは予めオフにしてください。また、免責事項も合わせてお読みください。※
送信にメールアドレスは不要です。
ご意見、ご感想、疑問、質問、お問い合わせ、その他何でもどうぞ。
(スパムとかは論外ですよ)
コガネモチ
こないだのtweet・ボイスについて、何人かの方からmention・コメントいただいたのですが、
140字では返答できないのでブログ・mixiで返答させてください(笑
(そのtweet・ボイスがこれ↓)
【もしも私がチューターだったら】分科会"批判塾"今時の会議に甘んずる諸君。君達は"批判"を恐れていないか?ブレスト、建設的意見、褒めて育てる..."否定すること"を拒絶・忌避する風潮に警鐘を鳴らそう。徹底的な"批判"こそ思考を跳躍させるのだ。…参加希望者1人も出ないだろうな-笑
で、これなんですが、そこまで深く考えてのtweetではないです(・・;)
ので、「分科会で何をやる」ということはまったく考えていません(汗
ただ、これを想い着いたのには、ある程度の考えがあります。
1.もし自分がチューターをやるなら…という発想
31st交流会の分科会選びのことを思い出していて、自分がチューターをやるとしたら…と考えたのです。
29thの分科会Aで、俺はチューターさんの凄さに驚愕しました。
30thではチューター募集が芳しくなかった際に、(冗談として)「チューターやれば?」と友人と話しました。
そういった経緯から、なんとなく「自分がチューターとして出来ること」を考えていたのでした。
2.会議をしていて納得いかない経験
会議中もそうですし、会議の成果物を見てもそうですが、
とにかく多くの会議で出てくるアイディアは粗雑です。
ブレストの美名の下に、実現可能性が考慮されていません。
それでいてしかし、「実現可能性に従った順位」なんて発言が簡単に出てくるのです。
もちろん、本来のブレストであれば創造性が発揮されるのかもしれませんが、
一般の学生が1時間かそこらで考えることは高が知れています。
殊(こと)、外部に発信する場合は相当程度の批判に耐え得るだけの「叩き」が必要ですが、
それが省略されているのでは?と思うのです。
3.自分の得意とするところ
俺は「創造」というものが苦手です。
ブレストでもうまく発言が出来ません。
思い浮かぶのは他者への批判ばかりです。
30thスタッフでは批判・横槍を入れまくりました(ごめんなさい>30thスタッフ各位)。
でも31stスタッフではそういったことをする人がいないと聞きます(伝聞なので不確定)。
俺にとって分科会は、チューターさんのアイデンティティの表象であるので、
そうした”自分にしか出来ないこと”と考えたとき、”批判”は一つのテーマになりうるかな、と思いました。
4.需要・供給
正直、この分科会の需要はないと思っています(笑
交流会に来ている人を見る限り、多くはアクティブでアグレッシブでクリエイティブです(←カタカナ微妙)。
でも、俺みたいに、ブレストで発言できない人もいる。
そうした人って、案外多い気がするのです。(つまりそうした人には需要があるかもしれませんね)
しかし今時の風潮ではそれが許されない。何か捻り出さねばならない。
その風潮って、本当に正しいのでしょうか?
批判があってこそ、改善案も出てきます。
学生達は”批判”を恐れ、ぬるま湯に浸かるための”防禦盾”を欲しているだけではないでしょうか?
もちろんアイディアを叩いていて、発案者が悲しむ姿を見て、嬉しいなんてことはないのですが(汗、
そういった批判に耐える姿勢をもっとみんな持って欲しいな、と思うのです。
つまり、供給サイド=俺の要求です。
5.批判にどのような価値があるか
(訊かれたので答えてみます。「甘い」と言われそうですが笑)
具体例を挙げます。
私の所属する委員会(NPO)では、いま新事業の案出しが行われています。
ちょうど先日は、各チームの案が全体に発表されていました。
その案は、発足したてのチームが最初の会合で出した物とのことで、かなり粗っぽいものです。
その発表の場では、「案を潰すのではなく、発展させる意見を」との注意がありました。
しかしその両者にどれほどの違いがあるのでしょう?
1)学生の甘えを矯(た)める。
「潰す=批判」と「発展的意見」の違いは、「叩き」の強さに過ぎないのではないでしょうか。
批判に耐えられないアイディアでは実行する意味が無いですし、
それを甘受して改善に繋げられれば、それこそ「批判」は「発展させる意見」に転化する訳です。
要は、批判の受け手の問題です。
4.の最後にも書きましたが、批判を受けるだけの忍耐を持たねば、「所詮は学生」に終わってしまいます。
であればこそ、批判をすることにより、「アイディアを出したらそれで終わり、駄目でも学生だから許される」という甘い認識が変わるのではないでしょうか?
2)役割分担の提案。
「潰す=批判」と「発展的意見」の違いが、「改善案を添付するか」にあるとすればどうでしょう。
「批判が得意な者」「発案が得意な者」の2者がいることは前叙のとおりですが、
「発展的意見」のみを求められては、「批判(だけ)が得意な者」はどうしようもありません。
逆に、「発案(だけ)が得意な者」も、問題の所在が判りません。
要は、分業が必要なのです。
批判するだけでも駄目だし、野放図に発言するだけでも駄目。
批判する者がいて、それを受けて改善する者がいる。
こうした分業をした方が、より錬度の高いアイディアになるのではないでしょうか?
…なんてざざっと書いてみましたが。
全体を通して思うのは、
・「批判をする人」が少ない
・「批判に耐える人」も少ない
ってことです。
一言で言えば、
「批判をする人」たる俺が、居場所を欲してるのかもしれませんね笑
140字では返答できないのでブログ・mixiで返答させてください(笑
(そのtweet・ボイスがこれ↓)
【もしも私がチューターだったら】分科会"批判塾"今時の会議に甘んずる諸君。君達は"批判"を恐れていないか?ブレスト、建設的意見、褒めて育てる..."否定すること"を拒絶・忌避する風潮に警鐘を鳴らそう。徹底的な"批判"こそ思考を跳躍させるのだ。…参加希望者1人も出ないだろうな-笑
で、これなんですが、そこまで深く考えてのtweetではないです(・・;)
ので、「分科会で何をやる」ということはまったく考えていません(汗
ただ、これを想い着いたのには、ある程度の考えがあります。
1.もし自分がチューターをやるなら…という発想
31st交流会の分科会選びのことを思い出していて、自分がチューターをやるとしたら…と考えたのです。
29thの分科会Aで、俺はチューターさんの凄さに驚愕しました。
30thではチューター募集が芳しくなかった際に、(冗談として)「チューターやれば?」と友人と話しました。
そういった経緯から、なんとなく「自分がチューターとして出来ること」を考えていたのでした。
2.会議をしていて納得いかない経験
会議中もそうですし、会議の成果物を見てもそうですが、
とにかく多くの会議で出てくるアイディアは粗雑です。
ブレストの美名の下に、実現可能性が考慮されていません。
それでいてしかし、「実現可能性に従った順位」なんて発言が簡単に出てくるのです。
もちろん、本来のブレストであれば創造性が発揮されるのかもしれませんが、
一般の学生が1時間かそこらで考えることは高が知れています。
殊(こと)、外部に発信する場合は相当程度の批判に耐え得るだけの「叩き」が必要ですが、
それが省略されているのでは?と思うのです。
3.自分の得意とするところ
俺は「創造」というものが苦手です。
ブレストでもうまく発言が出来ません。
思い浮かぶのは他者への批判ばかりです。
30thスタッフでは批判・横槍を入れまくりました(ごめんなさい>30thスタッフ各位)。
でも31stスタッフではそういったことをする人がいないと聞きます(伝聞なので不確定)。
俺にとって分科会は、チューターさんのアイデンティティの表象であるので、
そうした”自分にしか出来ないこと”と考えたとき、”批判”は一つのテーマになりうるかな、と思いました。
4.需要・供給
正直、この分科会の需要はないと思っています(笑
交流会に来ている人を見る限り、多くはアクティブでアグレッシブでクリエイティブです(←カタカナ微妙)。
でも、俺みたいに、ブレストで発言できない人もいる。
そうした人って、案外多い気がするのです。(つまりそうした人には需要があるかもしれませんね)
しかし今時の風潮ではそれが許されない。何か捻り出さねばならない。
その風潮って、本当に正しいのでしょうか?
批判があってこそ、改善案も出てきます。
学生達は”批判”を恐れ、ぬるま湯に浸かるための”防禦盾”を欲しているだけではないでしょうか?
もちろんアイディアを叩いていて、発案者が悲しむ姿を見て、嬉しいなんてことはないのですが(汗、
そういった批判に耐える姿勢をもっとみんな持って欲しいな、と思うのです。
つまり、供給サイド=俺の要求です。
5.批判にどのような価値があるか
(訊かれたので答えてみます。「甘い」と言われそうですが笑)
具体例を挙げます。
私の所属する委員会(NPO)では、いま新事業の案出しが行われています。
ちょうど先日は、各チームの案が全体に発表されていました。
その案は、発足したてのチームが最初の会合で出した物とのことで、かなり粗っぽいものです。
その発表の場では、「案を潰すのではなく、発展させる意見を」との注意がありました。
しかしその両者にどれほどの違いがあるのでしょう?
1)学生の甘えを矯(た)める。
「潰す=批判」と「発展的意見」の違いは、「叩き」の強さに過ぎないのではないでしょうか。
批判に耐えられないアイディアでは実行する意味が無いですし、
それを甘受して改善に繋げられれば、それこそ「批判」は「発展させる意見」に転化する訳です。
要は、批判の受け手の問題です。
4.の最後にも書きましたが、批判を受けるだけの忍耐を持たねば、「所詮は学生」に終わってしまいます。
であればこそ、批判をすることにより、「アイディアを出したらそれで終わり、駄目でも学生だから許される」という甘い認識が変わるのではないでしょうか?
2)役割分担の提案。
「潰す=批判」と「発展的意見」の違いが、「改善案を添付するか」にあるとすればどうでしょう。
「批判が得意な者」「発案が得意な者」の2者がいることは前叙のとおりですが、
「発展的意見」のみを求められては、「批判(だけ)が得意な者」はどうしようもありません。
逆に、「発案(だけ)が得意な者」も、問題の所在が判りません。
要は、分業が必要なのです。
批判するだけでも駄目だし、野放図に発言するだけでも駄目。
批判する者がいて、それを受けて改善する者がいる。
こうした分業をした方が、より錬度の高いアイディアになるのではないでしょうか?
…なんてざざっと書いてみましたが。
全体を通して思うのは、
・「批判をする人」が少ない
・「批判に耐える人」も少ない
ってことです。
一言で言えば、
「批判をする人」たる俺が、居場所を欲してるのかもしれませんね笑
PR
Comment
無題
その考えの一部は違うと思う.
改善案を考えることが一番できるのは,批判をした人自身だよ.
どの部分で批判したいのかが明確に分かっている人物だからね.
もしも批判したものの改善案が分からなければ,批判の内容を詳しく説明した上で,「ただ改善案が分からないので皆で考えられないでしょうか?」という提案をすればよいこと.
そうしなければ,「アイディアを出してそれで終わり」と「批判してそれで終わり」が同じになってしまいます.
確かに,「批判に耐えられない」ということに対しては同感です.ですが,そのことと「批判と提案の役割分担」とは,また話が違う気がします.
改善案を考えることが一番できるのは,批判をした人自身だよ.
どの部分で批判したいのかが明確に分かっている人物だからね.
もしも批判したものの改善案が分からなければ,批判の内容を詳しく説明した上で,「ただ改善案が分からないので皆で考えられないでしょうか?」という提案をすればよいこと.
そうしなければ,「アイディアを出してそれで終わり」と「批判してそれで終わり」が同じになってしまいます.
確かに,「批判に耐えられない」ということに対しては同感です.ですが,そのことと「批判と提案の役割分担」とは,また話が違う気がします.
無題
そうでしょうか。
では表現を整理します。
日本蕪村さんがイメージしているのは「修繕案」とでもいうべき、小さな訂正だと思います。
俺がここで言いたいのは、もっと大きな、創造とでも言うほどの改善案です。
実例を忘れてしまったのでここで出せないのが痛いのですが...
>「アイディアを出してそれで終わり」と「批判してそれで終わり」が同じ
ここは良く解りません。
要は、これらが両輪で互いに活躍すればいいと思うのですが。
ここでの互いの疎通が重要というニュアンスなのであれば、同感です。
では表現を整理します。
日本蕪村さんがイメージしているのは「修繕案」とでもいうべき、小さな訂正だと思います。
俺がここで言いたいのは、もっと大きな、創造とでも言うほどの改善案です。
実例を忘れてしまったのでここで出せないのが痛いのですが...
>「アイディアを出してそれで終わり」と「批判してそれで終わり」が同じ
ここは良く解りません。
要は、これらが両輪で互いに活躍すればいいと思うのですが。
ここでの互いの疎通が重要というニュアンスなのであれば、同感です。
この記事にコメントする