千葉大生の右寄りなブログ。日常の出来事から政治批判まで。
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制作著作:猫の毛
県立船橋高校理数科卒。
1年間のオオヨビ生を経て、
千葉大法経学部総合政策学科2年。
=所属=
学生団体ivote
環境ISO学生委員会
自然保護研究会
環境サークルSun&Co.
星を見る会
=主義=
尊皇愛国主義
反露中朝派
特に敬愛する帝は後桜町院
まず周囲、次に日本、最後に世界の平和と安寧を願う平和主義
もちろん非核推進派
1年間のオオヨビ生を経て、
千葉大法経学部総合政策学科2年。
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尊皇愛国主義
反露中朝派
特に敬愛する帝は後桜町院
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コガネモチ
「この涙が枯れるまで」を読みました。
(以下ネタバレ)
最初に思ったのは、所詮ケータイ小説か。って事でした。
だって、涙が「枯れる」ですよ?
枯れるは植物関連だろ、みたいな。
ここは「涸れる」だろ、的な。
嫌な性格ですね。自分。
結局、この件は本文読んで納得したわけですが。
それでも。
やっぱり漢字力の低下は恐いですね。
同訓異義語が出来ない。
ちょろっと引用しますね。
「もう夜になっていた。/月が太陽に変わって、暗い空に輝きを放つ。」(228頁)
なんか分かりにくい文だな...と。
「月が太陽に変わって」だと、もう日が昇ってきた感じがします。
でも、まだ夜なんですね。
この場合、「代わる」を用いたほうがいいと思うんですがねぇ...
まぁこんな重箱のスミを突く猫の毛は、やっぱり性格悪いわけです笑
で、本題。
中身としては...いちご100%とか天くれシリーズとかに似てるな...と。
(いちご100%の対猫の毛攻撃力は、この辺の記事で書いているのでお暇ならどうぞ)
そういえば、今ぐぐってみたら、ブログに感想うpしてないんですね、天くれ。
以前、「太陽と月」の感想を書いたわけですが、その後気になって、天くれシリーズ全部読んだんですよ。
あんま感想とか残ってないんですけど。
で、ケータイ小説って、みんなこんなもんなんですか?
なんか深みないし、そもそも、ストーリーが一緒じゃね?
主人公を想ってくれる人が居て、でもすれ違って、紆余曲折経て、結局一緒に...でも、実ったところで相手が亡くなる...時は過ぎ去り、最終的には個々人みんなハッピーエンド。
そりゃ、この流れが王道なのは分かります。
でも、あまりに薄くなぞってるような気がしてならない。
この王道の中で、如何に意表を突き、感情を動かし、或いは一瞬道から外れ...こんな事が、その作品の、作者の腕の見せ所なのでは?
それから、天くれのときも思ったんですが、命軽過ぎないか?
そんな簡単に殺していいのだろうか。
確かに、旧来の作品は、死を予期させる事象がありました。
それがその作品を深めていた。
その点、あまりに急な死は、死の唐突さ、不条理さを表現するのに良いのかもしれない。
今までの固定観念を打ち破ったのかもしれない。
猫の毛の発想は、最早古いのかもしれない。
でも、猫の毛は感動できませんでした。
こんな事書くのはどうかとも思うけれど。
感情描写が希薄。
動機付けが希薄。
例えば、何故彼女(主人公と結ばれるも亡くなる役)は主人公をあそこまでして愛したのか。
その説明は殆どない。
主人公目線で書かれるその表現は好感が持てます。
でも、その主人公目線から如何に他者の感情を描写するか。
主人公には気付かせず、読者に気付かせる...
そんな高度なテクニックを要する技法だと思います。
それから。
最後に手紙で一気に説明する。
それも死後のタイムポスト。
都合良すぎ。
更に、夢でタイムトリップ?
そんな事、物語でも反則な気がします。
稚拙な描写だからこそ、妙にリアルな描写が際立つ。
あそこはもっと、読者の想像力に頼った表現で終わらせるべきだったのでは?
もう一つ。
危険だな。と思う事があります。
天くれでも、今作でもそうですが、「友人が自身の子に死した人の名を冠する」のです。
今、ネット上ではDQNネームなるものが話題です。
奇怪な名前を付ける理由は、「親が子をおもちゃとして見ている」からに他なりません。
子は、親の所有物ではないのです。
とすれば、子の事を考えたとき、先の事例はどうでしょう。
友人は、自身の子に、死した人の一生を押し付けるつもりですか?
確かに作中ではそんな考えではないかもしれない。
でも、読者は違うのです。
死した人の名を冠する事が、「カッコイイ」となってしまったら...
この思想と、我が子虐待、因果関係がある事に異論はありません。
さて。
こんな偉そうに書いていますが、猫の毛は、当然作者の方に敬意を払っています。
猫の毛なぞ、足元にも及ばないからです。
では、なぜこんなことを書くのか。
それは、ケータイ小説の対象――女子高生=若者の将来、ひいては我が国の行く末が心配だからです。
確かにケータイ小説は読みやすい。
それはまるでマンガの印象を受ける程に。
いわゆるラノベもそうです。
このような作品を読む事は、決して悪い事ではないと思います。
むしろ、大いに悩む始点となるのではないでしょうか。
少なくとも、猫の毛はそうです。
でも、これだけではいけない。
先日の天声人語にも似た事が書かれていました。
もっと若者は、難解な文章を読まねばなりません。
ぶっちゃけた話、猫の毛は文学が嫌いです。
全くと言えるほど読んでいません。
何も、森鴎外を読めと云う話ではないのです。
ただし、ケータイ小説・ラノベは、文章表現に乏しすぎる。
難解な漢字・熟語、複雜な人物関係or理論展開...
頭を使う読書、読後に疲れを感じる読書。
猫の毛も偉そうな事は言えません。
最近は、本を手に取ることも減りました。
ですから、だからこそ、自身への喚起も含めて言いたい。
社会の言うように、読書は心を豊かにします。
そして、その豊かな心を描写する表現力を養います。
こうやってどんどん人として成長してゆく事でしょう。
社会中の人々が友好的に関わっていく事。
近年の相手を思いやれない社会に対し、読書は手を差し伸べられるのではないでしょうか。
(以下ネタバレ)
最初に思ったのは、所詮ケータイ小説か。って事でした。
だって、涙が「枯れる」ですよ?
枯れるは植物関連だろ、みたいな。
ここは「涸れる」だろ、的な。
嫌な性格ですね。自分。
結局、この件は本文読んで納得したわけですが。
それでも。
やっぱり漢字力の低下は恐いですね。
同訓異義語が出来ない。
ちょろっと引用しますね。
「もう夜になっていた。/月が太陽に変わって、暗い空に輝きを放つ。」(228頁)
なんか分かりにくい文だな...と。
「月が太陽に変わって」だと、もう日が昇ってきた感じがします。
でも、まだ夜なんですね。
この場合、「代わる」を用いたほうがいいと思うんですがねぇ...
まぁこんな重箱のスミを突く猫の毛は、やっぱり性格悪いわけです笑
で、本題。
中身としては...いちご100%とか天くれシリーズとかに似てるな...と。
(いちご100%の対猫の毛攻撃力は、この辺の記事で書いているのでお暇ならどうぞ)
そういえば、今ぐぐってみたら、ブログに感想うpしてないんですね、天くれ。
以前、「太陽と月」の感想を書いたわけですが、その後気になって、天くれシリーズ全部読んだんですよ。
あんま感想とか残ってないんですけど。
で、ケータイ小説って、みんなこんなもんなんですか?
なんか深みないし、そもそも、ストーリーが一緒じゃね?
主人公を想ってくれる人が居て、でもすれ違って、紆余曲折経て、結局一緒に...でも、実ったところで相手が亡くなる...時は過ぎ去り、最終的には個々人みんなハッピーエンド。
そりゃ、この流れが王道なのは分かります。
でも、あまりに薄くなぞってるような気がしてならない。
この王道の中で、如何に意表を突き、感情を動かし、或いは一瞬道から外れ...こんな事が、その作品の、作者の腕の見せ所なのでは?
それから、天くれのときも思ったんですが、命軽過ぎないか?
そんな簡単に殺していいのだろうか。
確かに、旧来の作品は、死を予期させる事象がありました。
それがその作品を深めていた。
その点、あまりに急な死は、死の唐突さ、不条理さを表現するのに良いのかもしれない。
今までの固定観念を打ち破ったのかもしれない。
猫の毛の発想は、最早古いのかもしれない。
でも、猫の毛は感動できませんでした。
こんな事書くのはどうかとも思うけれど。
感情描写が希薄。
動機付けが希薄。
例えば、何故彼女(主人公と結ばれるも亡くなる役)は主人公をあそこまでして愛したのか。
その説明は殆どない。
主人公目線で書かれるその表現は好感が持てます。
でも、その主人公目線から如何に他者の感情を描写するか。
主人公には気付かせず、読者に気付かせる...
そんな高度なテクニックを要する技法だと思います。
それから。
最後に手紙で一気に説明する。
それも死後のタイムポスト。
都合良すぎ。
更に、夢でタイムトリップ?
そんな事、物語でも反則な気がします。
稚拙な描写だからこそ、妙にリアルな描写が際立つ。
あそこはもっと、読者の想像力に頼った表現で終わらせるべきだったのでは?
もう一つ。
危険だな。と思う事があります。
天くれでも、今作でもそうですが、「友人が自身の子に死した人の名を冠する」のです。
今、ネット上ではDQNネームなるものが話題です。
奇怪な名前を付ける理由は、「親が子をおもちゃとして見ている」からに他なりません。
子は、親の所有物ではないのです。
とすれば、子の事を考えたとき、先の事例はどうでしょう。
友人は、自身の子に、死した人の一生を押し付けるつもりですか?
確かに作中ではそんな考えではないかもしれない。
でも、読者は違うのです。
死した人の名を冠する事が、「カッコイイ」となってしまったら...
この思想と、我が子虐待、因果関係がある事に異論はありません。
さて。
こんな偉そうに書いていますが、猫の毛は、当然作者の方に敬意を払っています。
猫の毛なぞ、足元にも及ばないからです。
では、なぜこんなことを書くのか。
それは、ケータイ小説の対象――女子高生=若者の将来、ひいては我が国の行く末が心配だからです。
確かにケータイ小説は読みやすい。
それはまるでマンガの印象を受ける程に。
いわゆるラノベもそうです。
このような作品を読む事は、決して悪い事ではないと思います。
むしろ、大いに悩む始点となるのではないでしょうか。
少なくとも、猫の毛はそうです。
でも、これだけではいけない。
先日の天声人語にも似た事が書かれていました。
もっと若者は、難解な文章を読まねばなりません。
ぶっちゃけた話、猫の毛は文学が嫌いです。
全くと言えるほど読んでいません。
何も、森鴎外を読めと云う話ではないのです。
ただし、ケータイ小説・ラノベは、文章表現に乏しすぎる。
難解な漢字・熟語、複雜な人物関係or理論展開...
頭を使う読書、読後に疲れを感じる読書。
猫の毛も偉そうな事は言えません。
最近は、本を手に取ることも減りました。
ですから、だからこそ、自身への喚起も含めて言いたい。
社会の言うように、読書は心を豊かにします。
そして、その豊かな心を描写する表現力を養います。
こうやってどんどん人として成長してゆく事でしょう。
社会中の人々が友好的に関わっていく事。
近年の相手を思いやれない社会に対し、読書は手を差し伸べられるのではないでしょうか。
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